水を撒いてくれ!

とりとめない思考の垂れ流し、または備忘録

空を見上げる古い歌は口ずさまない

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 新しい小説を書こうとしているけどまったく筆が進まないのでつらつらとあまり意味のないことを語ってみる。いわば息抜き。そうでもしないとそのうち「我は冥界より来たれり」みたいな中二病全開の文章か、もしくはなんじゃそれっていうつまらない愚痴を並べたててしまいそうだから。

 タイトルは尊敬する小説家・小路幸也さんの作品のオマージュ()です。特に意味はありません。

 

 

 

 ぼくらはたまに空を見上げて、そこにある青や白やオレンジや灰色や黒やその間の微妙ないくつもの色について様々な感情を巡らせたり、その先にある宇宙の果てしなさについて考えたりする。特別なことじゃなくてもひとつの行為によってぼくらの心というものはいろんな反応を示す。

 ぼくはこれまで生きてきた中で何度も空を見上げてきた。毎回同じ気持ちになるわけじゃない。本当にいろんな感情が溢れて、自分でも気づけていなかったことに気づいたり、何かを確信したりすることもある。反対に自分の心がささくれ立っていると夏の抜けるような青い空に腹が立ったりする。

 自分の心や感情は空に映る。それは「見る」という行為にすでに何らかの思惟が乗っかっているからだと思う。その正体を知るすべとしてぼくは空を見上げるのかもしれない、なんて気もする。

 

 雨の日に自室で過ごすのが好きだ。雨音を聴きながらコーヒーを飲んだり本を読む。

 晴れた日に緑の多い公園に行くのが好きだ。風が木々を揺らしていく音を聴く。

 夜の線路沿いを歩くのが好きだ。昼間はうるさい場所にようやく訪れた休息の時間を共有する。

 

 つまらないポエムのようだけど本当にこういう小さな好きなことのお蔭でぼくは生きていられる。空があるお蔭といってもいいかもしれない。
 空の在り様によって暮らしの中に喜びを見出し、空を見上げることで自身の心の在り様を知り、どこへ向かいたいかを再確認する。

 

 まったく意識していなかったことではあるけど、いつの間にかぼくは仏教の思想に近づいているようだ。空と大地の間にある己こそがひとつの宇宙である……みたいな。
 それは大袈裟だとしても、歳のせいか近頃は自然の中にあるヒトというものについてよく考える。過去に例を見ないほど科学が進歩を続けていく時代でも結局は一人のヒトとして自然の摂理の中に組み込まれているという事実。つまり死というものから生を見るというようなこと。
 小難しい話ではなく感覚としてそういうことがある。

 なんかやっぱりよくわからない気持ち悪い文章になってしまったな。

 

 

 とにかく、日々を乗り越えるのは想像以上に大変だ。
 コンテンツやアートだけでは満たされないことがある。
 人にしか埋められない何かがあり、自然の中に身を置くことでしか気づけないことがある。

 山や海に行かなくても見上げればいつでも空がある。ぼくはたしかにそれによって救われている。