純情じゃない感情
最近あまり本を読めていない。心と時間に余裕がないのだ。ツイッターなどでの話題にもあまりついていけずにいて、どうにも情けない事態である。
とはいえ、まったく何も読んでいないというわけでもない。西田幾多郎の『善の研究』を読み返そうと試みたり、書肆侃々房の文藝ムック『たべるのがおそい』や伽鹿舎の『片隅』を読んだりはしている。
ただそれも内容をしっかり体に入れ込んでいるというよりも、もっとインスタント的というか、著者や出版社の方たちには申し訳ないのだが活字を取り込んでいるだけに過ぎない作業のような状態だ。
知っている人が有名になったり何か自分に似た新しい試みを始めたりすると焦る。以前から自覚してはいたが、ぼくはひどく矮小な人間なので妬みや嫉みの感情はかなりある。
調子がいいときには「自分は自分だから」と思えるし(少なくとも表面上は)称賛することもできる。しかし一度調子を崩してダークサイドに入るとダメだ。嫉妬とまんじりとも進まない自分自身に対する焦りとで内臓からやられていく。人の成長や成功を羨んでいる暇はないはずだ。というのはわかってはいるつもりなんだけどね。
ぼくはオタクにもなりきれずリア充ってほどイケイケ(死語)でもなかった。
常に中途半端というかどっちにも染まれず、どっちもバカにしていたし、どっちも羨んでいた。思春期にはいろいろと拗らせたこともあった。どこにいても常に身の置き所がわからなくて、とにかく静かにしていようと思ったりもした。
だけど根本的にぼくという人間は承認欲求が強く、それでいて他人の目を気にするタチなので挙動がおかしくなる。結果嫌われることもあれば面白いやつだと思われることもある。
とにかく自分という人間が嫌になることってあるってことだ。
何が言っているんだ、ぼくは。
ちっとも進まないペンだが決して折ることはない。続けよう。